少し家が整理されるそんな物を買った。
今の家に届くならば、今よりもいい空間を自分でつくっていけるのだろう。
それは願いも手立てがわかっていなかった、
一つのインテリアデザインの初めの一歩。
納得できないところを納得のままに空間を変える。
建築の前にインテリアの思考が頭に生まれている感じがして今は少しうれしいかも。
ようやく一人になれたのだが、
そうだな、確かに前よりお金に余裕がある今、
少しずつ環境をみずからの好むところに変えていく、
そんな判断の目は持ってもいいかもしれない。
いいんだな。変えていっても別に。
花とか飾るなら。
狭くとも一室を豊かにしていけるなら。
作らなくていい代わりに、見定めて取り入れて変えていきたい。
それは部屋に限らず、自らの人生もまたそうありたい。
善い悪いではなく。こっちのほうがいいかもな。で進んでいきたい。
一旦自らの思考とジャッジをもとにどうあゆみ続けられるかを
考えていきたい時期かもしれない。
それはある種、今の仕事の延長ではないかもしれないところで、
今の仕事で培える能力で、判断力でものを作りたいかもしれない。
それはすぐできるものではなく。
大学在学当時では考えられなかった時間軸のある。
計画の上にあるそんな”ものつくり”。
もしくはもう、このまま文字のまま進めるところまで進み続けられたならば
目新しい表現はいらないかもしれないけれど。
文学的表現については国語辞典や漢字辞典で身に着けていきたい
本当に性にあっているのだろう。
ここまで何もとらわれずに広々と書くことに、
つなげることに躊躇がいらない。そんな行動っていうのは。
ひとのつながりが連綿とつながっている時代を超えて、
そういうことが今同一の道の上にわかるこれもそのひとつだと、
だれもが彼もが読むことを強制されない。
長かろうと短かろうとそこにつながりが。方向性があるのだから。
だから国語辞典でも買いましょうかね。
みんながみんな読まなくてもいいんだけれど。
ある種、筆が進むときはしっかり”観点・目線がある”そんな時もあった気がする。
いまはただ思考の垂れ流しではあるのだけれど。
なにかと何かをどこかの切り口でつなげるみたいな感じで
やってみたいことはたくさんある。
思い付きでいいんだよと。
正解もなくて、それとそれって確かにその観点でつなげられるかみたいな。
それが身体感覚に近いのであれば。
日常の先の”習慣的な実感”に一致するならば、
それは届けるとかではなく人と人との内と内でわかるということなんだろうなと。
観察に意味がある。
解釈に意味が生まれる。
伝えたいことは実感であり、共感であり、いつでも読みたい、離れたいが人に委ねられる。
あの日あの時えげつない量をただ一人が見るそんな状況で書き続けられた環境は
ある種、いびつな関係ではあったかもしれない。
ただし。そこで芯から震えた確信は、戻ってこれるそんな確かなところだったんだと。
何年越しだろうか、どこを経由したのだろうか。
この方向でいいなと思える判断の上で進み続けられる。
急ぐこともしなくていい、
誰も聞いてくれなくていい
誰の耳も、音で邪魔しないのだ。
否定をしない。沈黙の対話。それが文章かもしれない。
観察って楽しいんだよって。そのまま伝えられるのがいいなと。
誰かが読んでいるっていう状態が自分には耐えられない。
それは鮮度がいらないのだ。僕にとって。
急いで「へい、おまち」って早さより、
書いて眺めて、あぁいいかもなってなってから。
誰も読んでいないようなそんな場所で
「ハイ、おいておこうかしらね」みたいな。
たとえるならば、部屋に少しきれいかもと思える彫刻を置くような。
文章で構成された彫刻はそれは場所も取らず、大きさのスケールもなく、
広大で限りのない場として人を迎え入れることができるのかもしれない。
どのタイミングで誰にいつどういう話題で丸いのか四角いのかとげとげしているのか。
別に要らないよって言われないような、そんな文章。
だってすでにここまで観てくれている。
それだけでもういいんだよ。どういう流れかわからないけれど、
あなたもこの流れが好きなんだと思う、
誰かが時間をつなげてことばとして流れていく時間が。
